鎮 座 地: 富田林市宮甲田町9-46


拝殿前



大鳥居(拝殿まで約150M)

太鼓橋より拝殿を望む


御 祭 神


主 神  品陀別命
建速素戔鳴命
菅原道真公

配 祀  天照皇太神
伊戔円尊
倉稲魂神
天水分神
高龗神


摂 社 (東)春日社 春日大明神
熊野速玉神
(西)天神社 火産霊神
事代主神
大国主神

末 社 (北)金刀比羅宮
(南)弁才天


由 緒 略 記

 当神社の創建年代は詳かではないが去る昭和十年国宝本殿大修築の際、本殿敷地の土中から古社殿に使用されていたものと推定される鎌倉時代の古瓦大獅子口一対、又藤原時代の物と推定される鐙瓦字瓦が多数出土したことによって藤原時代以前の創建であることが裏付けされた。又出土した古瓦獅子口より創建当時の当社社殿は現社殿よりも大きい建造物であったことも推定される。

 当地方は古来「錦部郡」と称し、大和朝廷に通ずる要路を占めていたために浪速京より水路を主とする交通の要点にもなって早くから大陸文化が移入され、「和名抄」に見える余戸郷、百済郷との称もあり、帰化人の郡落をなしていた。又「爾之古里(にしこり)」とも称され、後に錦部郡となったものであるが、古代においては、百済より帰化した諸藩が広く土着して綾錦織等を朝廷に奉り、文化向上に貢献したことが伺われる。当社の鎮座地は錦部郡の最北端に位置し、郡の咽喉を扼し「社殿は南面して全部を一望の内に睨せられる要所にあり」且つ郡内の水流も亦此処一所に集まる地であったので、古来から人呼んで水郡の郷と称え、錦部の名に訓の通ずる所から何時の頃からか水郷と変遷し、当社の社名も水郡天王宮と呼称されるようになった。又この宮を錦部の一ノ宮とも或は「河内の三水分の一つとして」上の水分戸称えられた様である。「即ち美具久留御魂神社を下水分とし、建水分宮を上ノ上水分と呼称されたことは今に古老の口碑に残っており」当社は往古からの大社であったことがうかがわれる。

 現重文社殿は「足利義教の勧進で讃岐守三善貞行の手によって」正平十八年十二月に創建されたもので、室町時代には武門「武将」高僧等の崇敬甚だ厚いものがあった様で、又社地社宝等の献納も度々であったと言い伝えられている。

 今残存しているものは足利義満の母系紀氏国雄が奉納したものと言い伝えられる大般若経、鎌倉時代の作身長ニ尺八寸の多門天の木像一躯がある。

 そもそもこの地方は石川源氏、錦織源氏一族が在住した郷土であって、同族等の氏神として世に尊崇の厚かったのは勿論郡氏均しく崇敬の誠を捧げたことが記録に現れている。

 明治五年郷社に列し、同四十年神餞料の供進神社に指定されたのを機会に旧称錦織神社に復活した。その後昭和八年社殿が国宝の指定を受け、大修築を行い「錦織造」の独特な優美建築の枠と相俟って賽する人の足をとどめさせるには十分な霊場でもある。


 平成十六(2004)年 大改修完成
   (翌春 竣工記念式典あり)


境 内 地  3,941坪


沿 革

 正平八(1363)年十二月 創建
昭和八年 本社殿 重要文化財に指定
昭和二十五年八月二十九日 本社殿・両摂社 重要文化財に指定


建 築

本 殿
桁行三間 梁間ニ間 一重 入母屋造
正面千鳥破風付 向拝三間 軒唐破風付
檜皮葺
極彩色共斗栱拳鼻の手法
摂社春日社
ニ間社流見世棚造 檜皮葺
摂社天神社
ニ間社流見世棚造 檜皮葺


祭 祀

一月一日 元旦祭
一月十五日(?) とんど祭
二月三日 鎮魂祭(節分)
四月  春祭
七月 夏祭
十二月 新嘗祭


本社殿

本社殿を望む


秋 季 大 祭
十月第二土・(日)曜日

以前は十・(十一)日、その前は十一・(十二)日

平成弐拾年 秋季大祭献燈台夜景



明治18年の古文書「水郡神社(当時)、祭典における地車奉納の件」の中に地車陳列詳細があり本社の東が「錦郡、甲田、宮甲田」、西が「廿山、彼方、五軒家、新家」とあり当時の宮入りの町と地車保有町が判る。

昭和十年 国宝本殿大修築時
昭 和 十 年   国 宝 本 殿 大 修 築 時

昭和10年
昭 和 十 年   国 宝 本 殿 大 修 築 時


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